KOYO OKADA
岡田紅陽の愛した心の風景
忍野をこよなく愛し、富士山を広く世界に紹介した写真家岡田紅陽 ―
誕生して100年が経った今も、珠玉の作品は、さらに輝きを増す

山頂落日
山頂落日
(S44.1.23 東京)
夏富士
夏富士
(S23.8.12 七面山)
雲は富士を夢にあそばせ、ロマンにみちびき
富士は雲によって目醒め、雲によって眠る
寒村
寒村
(S29.2.7 忍野村)
夜明け
夜明け
(S45.3 忍野村)


富士山の撮影にその生涯をかける。
 岡田紅陽、本名・岡田賢次郎は明治28年(1895)新潟県中漁沼群中条村(現在の十日町市)に父・龍松、母・きし、の3男として生まれた。曾祖祖父の喜兵衛、祖父の栄蔵、父の龍松とも雅号を持つ山水画などの名手で、父の龍松は、衆議院議員・兄正平も新潟県の初代民選知事に当選するなど学術豊かな一家の中で育ちました。
幼少年時代を北国の大自然の中で自由闊達に育ち、成長した紅陽は、大正3年(1914)4月、早稲田大学予科に入学し、学業の傍ら友人からカメラを借り初めて富士山に接して以来、その神々しさにうたれ、その時の深い感激から次第にその魅力にとりこになっていきます。
紅陽が初めて忍野村を訪れたのは大正5年(1916)といわれ、まだ電灯のないのどかな美しい自然の景観と雄大な「忍野富士」に出会って感動して以来、忍野村を拠点として憧れの富士山を撮り続けることになります。当時はまだ風景を目的に撮影するプロ写真家はほとんど存在しておらず、紅陽は自ら独自の道を切り拓いていかなければなりませんでした。
富士山を撮影する一方、東京付(現在の東京都)の嘱託写真師として、大正12年の関東大震災の被災写真を命がけで撮影するなど、貴重な報道写真の分野でも活躍しました。
富士に学ぶ
 紅陽は撮影するたび、富士山への崇高な畏敬の念というべき思いを深めていきました。発刊された写真集にその思いを次の様に綴っています。
― 私の憧れをもつ富士山は、私のカメラをとほしての盾ナあり、詞であり、音楽であり、信仰であり、そして生活でありたい。
(1940年 皇紀1600年記念写真集「富士山」 アルス社刊)
― 今まで撮り得た富士の原板は十数万は超えていますが、千態万化の姿と「心の富士山」はまだ撮り得ておりません。たまたまこの中で私の好きな作品があったとしても、それは私の手柄ではなく、富士山のお手柄であると信じております。
(1959年 写真集「富士」 朋文堂刊)
― 今まで写した原板は大小数万枚に及ぶも、一枚として同じ富士山は写っていない。まして会心作などは1枚も見当たらない。1秒の何分の1かの時間が、どんなに尊いものかが解ってきた。そして大自然の摂理が、いかに冷厳であり、また反面、温情の恵み豊かさであるかが感得されたとき、私は限りない敬虔と感謝の念に打たれた。
(1970年 写真集「富士」 求龍堂刊)
など、写真の真髄とも言うべき数々の名言を残しています。さらにその傍ら日本観写真連盟や富士の会の発足など社会活動にも幅広く尽くしました。紅陽が発表する1枚1枚の富士の写真は「日本人の心の原風景」として国内はもとより、世界各国でも大きな反響を呼び、富士山とともにその撮影拠点とも言うべき忍野も、多くの人々に知られることとなりました。
昭和47年(1975年)、77年の生涯を全うするまで58年間、40万枚にも及ぶ富士山を撮影したといわれますが、誕生して100年を迎えた今でもその傑作の数々は、世界の多くの人々の心を魅了し続けています。「富士こそわがいのち」とまで語られた富士山の魅力と、そこに写されたわがふるさとの忍野の大自然のすばらしさを末永く後世に伝えたいものです。


忍野村の情報 | FUJIGOKO CYBER CITY