忍野の歴史

富士北麓忍野と宇津湖のロマン
 忍野村からは、世界の名山富士の優姿をどこからでも眺望できる。特に忍野八海と富士山の結びつきは、古くから文人墨客に親しまれ、数々の歴史や文化を生んできた。
富士山は標高3,776mの円錐形火山で、数々の噴火を重ね今の美しい姿となった。山は低地帯から高山帯に分けられているので、動植物や地質など自然観察には最高の博物館といえる。
 富士山の噴火は天応元年(781)7月6日の『続日本書紀』の記録を初見として、以後しばしば大噴火を記録している。中でも延暦19年(800)、貞観6年(864)、宝永4年(1707)の噴火は富士山三大噴火とよ ばれている。
 忍野村はかつて「宇津湖」(うつこ)という湖であったという。この湖は延暦19年の大噴火で、鷹丸尾溶岩流によって2つに分断、忍野湖と山中湖になったといわれている。宮下文書は「福地山一円何箇所と なく噴火し、八方の沢々熱湯押し出し宇津湖は二湖となる。」と伝えている。忍野湖は長い歳月の間に川の侵食などで湖水の水が流失枯渇して幻の湖となってしまった。その湖底状の盆地に生まれたのが忍野村だという。
 村内には二つの浅間神社が鎮座しているが、その創建は古く、富士山の神霊鎮護の神であるといわれている。忍草浅間神社は、源頼朝の富士の巻き狩りの折、鎌倉幕府の武運長久が祈念され、社領の寄進があったといわれ、 ご神体は県の文化財となっている。

イワウチワ 霧氷
高原の花
イワウチワ
霧氷

富士山逢拝の霊場
 忍野八海の湧水は、富士山に降った雪や雨が富士山内で数十年も伏流し、やがて清れつな水となって湧き出したもので、富士の御手洗ともよばれる。富士講の開祖長谷川角行の富士八湖修業になぞらえ、八海巡拝が大正末期まで盛んに行われていた。市川大門の大我講開祖友右衛門は、江戸末期にすたれゆく信仰を嘆き、八海に八大竜王を祭り、それぞれ八湖に竜王名と歌を刻んだ石碑を建立、その再考を図った。 富士吉田登拝の道を富士道とよび、富士吉田市の御師の町へ通じた。内野から忍草を通り小佐野から上吉田へ通ずる道である。一方村の北西、大明見との境にある鳥居地峠を越えて下吉田から上吉田へ出る道も富士道で、かつては峠に鳥居が建てられ富士山遥拝の霊場であった。また内野から平野境の峠道は古代の官道であったといわれている。
天正10年(1582)3月、武田氏が滅び織田信長が本能寺に急死すると、甲斐一国は徳川・北条の争奪の場と化した。北条氏政は家臣幸田正治に命じ、忍野・明見・山中方面に勢力のあった渡辺庄衛門尉に旧臣・縁故者を集めさせ郡内統治の軍備をうながす印判条を与えている。動乱の天正期を知る『北条家文書』は貴重である。(渡辺鴻家蔵)
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦以後、本村は鳥居成次の支配化となる。寛永10年(1633)、秋元氏の谷村藩に組みこまれ、宝永2年(1705)から幕末まで幕府直轄領となった。江戸期は忍草村・内野村であったが、明治8年2月15日両村が合併忍野村となった。

八文字焼
忍野八海祭り
八文字焼


農業と観光そして先端技術
 本村は高冷地と水利に恵まれず、水稲栽培は忍草に限られ内野は畑作が主であった。先人のたゆまぬ努力の結果灌漑用水も整備され、農業立村として発展した。戦後は農業を目指し、観光は民宿業がその主体を占めている。近年、日本を代表する先端技術企業の進出もあり、新生忍野村として、雄大な富士の自然とともに発展の一路をたどっている。


忍野村の情報 | FUJIGOKO CYBER CITY